「自分に優しくする」って難しい?

「自分に優しくする」のって難しい?
アレクサンダー・テクニークのレッスンでしばしば生徒さんに投げかけられる言葉に「自分に優しくしよう」、「自分を受け入れてあげよう」という言葉があります。これは演奏にしてもスポーツなどの活動にしても、「やりたいこと」を自由にやるために、自分で自分の邪魔をしないように、積極的に自分に許可を挙げることを実践してもらうための言葉なんですね。

けれど、最近私は「自分に優しくする」という言葉をそのままには受け止められていない自分に気がついて来ました。
有り体に言うと
「うーん。。『自分に優しくする』っていうけど、そういうのはちょっと気持ち悪くないか?」
とどこかで反発してしまっていたのです。

これは、自分でも無理のないことだなと思います。私達は小中高や大学を通じて色々な環境での教育を受けてくるわけですが、「周りの人たちに優しくしましょう」と言われることはあっても「自分に優しくしましょう!!」なんて教えられることは殆どなかったですよね?どこかで周りのために自分を犠牲にすることが「正しい」というように私達は教育されているのです。

それに、これは私特有の事情とも言えるかもしれませんが、そういう学校教育の中で、私は沢山の先輩や仲間、そして素晴らしい先生たちに出会ったのですが、たまたまこういう人たちの中に、もう今思い出してもため息が出るくらいの「超ストイック」な自分に厳しい「努力の天才」が沢山いたのです!あまりここを書くと脱線になってしまいますが、特に大学・大学院時代は強烈で、趣味の音楽活動や、本業(?)の研究活動でも
「すごい!こんなものすごい努力をしている人が世の中にいるなんて!なんて情熱だろう!俺もこの人達に負けんよう努力しよう!全力でぶつかってやれー!!」
と驚き憧れる人がいっぱいいました。こういうものすごい努力をしている人はもうそれだけで「カッコいい」んですね。それで私も負けるものかーと思うのだけれど、結局いつのまにやら身も心も限界になってしまい
「なんで俺はこんな根性ないんじゃー!」
と自己嫌悪に陥るパターンを繰り返していました。
(楽器が上手に演奏できないことがコンプレックスというのではなくて、実は上手にできないのに、自分は練習量が他人より足りない。根性がない。情熱が足りないと感じるのがコンプレックスになるんですよね。。。)

「自分に厳しい」=「カッコいい」
「自分に優しい」=「何か気持ち悪い?」
というパターンが自分の中にあることに改めて気がつくようになりました。

アレクサンダー・テクニークを学ぶという文脈においては、おそらくこういうパターンや考え方自体が正しいか間違っているかというのは問題ではありません。これは私の個人的な理解でしかありませんが、アレクサンダー・テクニークの目的は(そんな風に見えることもあるかもしれないのですが)理念教育ではありません。あくまでも自分がやりたいことをやるために心身の働きを洗練させるための「動きの教育」こそがアレクサンダー・テクニークを学ぶことの趣旨だと思います。

そして、「動きの教育」という観点から見れば「自分に優しい」ことが明らかに自分の動きの質を高めることに貢献してくれます。アレクサンダー・テクニークを使う、実践するためには「自分に優しくする」という考え方を自分に対して意識的に、積極的に再教育することが必要なんですね。

これは実はとても大変なことだと思います。「なんだか気持ち悪い」というのは自分の中の根強い習慣的な価値判断ですから、それに対して理性的に、意識的な問いかけを繰り返す必要があるということが改めて分かります。

これにはまだまだ沢山の時間と経験が必要になりそうでちょっと気が遠くなりそうですが、まずは私は
「『自分に優しくする』ってちょっと気持ち悪いな」
と感じてしまう自分の反応を否定しないで受け止めてあげることから始めたいと思っています。

部活動や学校での教育の結果で「自分に厳しくする」ことにとても馴れている人、「自分に優しくなんてできない!」という気持ちが強い人にとっては、まずその気持ちを認めてあげることが「自分に優しくする」ことを学ぶスタートになるのかなと思います。

まだまだ探求中ですが、今はこんな風に思っています。

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