人を人として見ること
今年も来日したトミー先生が、繰り返し仰っていたのが、「その人そのものに触れる」、「その物の中の美しさに触れる」ということでした。
(これもまた、私が受け止めたことですから、他の生徒さんはまた違った言葉を受け止められていると思います。)
私たちは赤ん坊だった頃から少しずつ、周りにいる人を「お母さん」や「お父さん」として認識し、「先生」や「先輩」、「友達」や「後輩」など、自分とのいろいろな関係の中にその人を置きながら、自分の見る世界、出会う世界に意味を与えて生きてきました。
少し、象徴的な言い方をするならば、私たちはありのままの何だか分からない世界に自分用の「名札」を付けながら、自分と世界の関係を作って、目の前のあなたに意味を与えながらそこにいる「わたし」をいろいろな形に作りあげてきたのです。
私たちの多くは、こうして生きることで、世界を知って、さらに世界に接する自分を知り、いろいろな自分を「発見」してきたわけですが、これは何かを見つける一方で何かを見失うプロセスでもあります。。
関係の中で人を見るようになると、いつの間にか人を人として見れなくなることがあります。
私自身がトミー先生のレッスンの後で気づかされたのがまさにこのことでした。
その人そのものや、その中の美しさに触れるとはどういうことだろうと考えていた時、私は突然に自分が毎日職場で出会う人をどこかで「仕事」として見ていたことに気がつかされました。
職場で出会う人は、仕事という関係の中で出会う人です。その関係の中にいる時、私はいつの間にか人を人としてでなく、まるで自分がこなす仕事を見るように見ていたことに気がついたのです。
こうして書いてみるとずいぶんおかしな、歪んだ物の見方をしていると受け止められるかもしれません。でも、こういうことは案外多くの人がやっているのではないでしょうか。
「友達」だったり「上司」だったり、「好きな人」や「嫌いな人」だったり、他にもいろいろな場面で私たちはいつの間にかその人につけた「名札」だけを見ていることがあると思うのです。
そうではなくて、目の前の人はまず「ただ一人の人間である」ということ。それ以上に、そこに存在するだけでエネルギーを放っている命そのものだということを思い出してみる。
そう思って目を向けてみると、どの人もみんないきいきと、はっきりと「動いている」のが見えてきたのです。
頭があって、胴体がある。みんなが自分のリズムで自分の命に合わせて、動いているように思えてきたのです。
「その物の中の美しさ」というのは、何かの意味をつけることをやめて、ただただその人を見るときに伝わってくる単純な「動き」なんじゃないか。そんな風に思うのです。
私の周りにはいつもいつも本当に豊かな動きのリズムが溢れていたことに気づかされました。
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